2010年6月28日月曜日

鴨男

 川本さんは、四十代後半の主婦だ。彼女は明け方に散歩をするのが趣味だ。最初はダイエットのために始めたのだが、今では雨の日以外は毎日コースを決めて歩きに行く程に入れ込んでいる。

 そんなある日のこと、川本さんが川辺を通るコースを散歩をしていると、フェンスの下で、鴨が鳴き出した。大きな声だった。縄張りを宣言するように、グァアグァアと繰り返している。

 へぇ、鴨ってこんな感じに鳴くのねえ。

 川本さんは興味を持ち、すぐ先にあった橋の欄干から川面を覗き込んでみた。

 すると、意外なことに、薄いグレーのつなぎを着た一人の若い男が、水面にしゃがんでいた。

 不思議なことに、男は水の上に浮いているように見えた。足を水面に置いて、相撲の蹲踞のような姿勢でしゃがんでいた。

 奇妙な光景に、何をやっているのだろうかと思った。

 あれ? 鴨は?

 男の姿は確かに不思議だったが、それと同時に、先ほどまで鳴いていた鴨の事が気になった。声は止んでいた。

 男の周囲に鴨のいる気配は無かった。

 その時、男がぐっと顔を川本さんの方に上げた。鋭い視線だった。

 ひっ

 川本さんは声を上げた。逃げなきゃと思った。

 だが男は、川本さんを射すくめつつ、グァアグァアと先ほどの鴨の声で鳴き出した。

 えぇえっ?

 川本さんはそちらに驚いた。今目の前で何が起きてるのか分からなかった。混乱した。

 さらに川本さんを混乱させる出来事が起きた。

 男は大きく両手を広げ、二三度羽ばたかせたと思うと、一気に空に飛び去ったという。


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深夜のドライブ

 三十年近く前の話だ。

 鎌田さんは、妙に目が冴えてしまったので、深夜のドライブに出かけた。最初はコンビニで雑誌でも買って帰るかと思っていたが、気づくと峠に向かっていた。山道の急なカーブを辿り、坂を上り、しばらく走ると、覚えの無い岐路があった。

 ——おし、行ってみるか。

 ぐねぐねとカーブが続いた後に、真っすぐの一本道に出た。

 こんな所、あったっけか。

 頭の中に地図を思い描いても、そんな一本道があるはずは無かった。途中で引き返そうかと思ったが、ターン出来るようなスペースが無かったので、仕方なくだらだらと走って来たのだ。

 三十分以上、一本道を走った。

 あれ?

 道のどん詰まりに、進入禁止の看板が出ていた。その前にターン出来るほどのスペースがある。看板の向こうは鬱蒼とした山だ。

 舌打ちをした。

 一服して帰るか——。

 蒲田さんは仕方なくUターンして元来た道を戻り始めた。

 しばらく行くと、一本道の街灯の無い山道を、向こうから着物姿の老若男女が歩いていた。

 えっ

 先ほど走って来た時には、そんな人影は無かった。

 親子連れ、老人、若い男女。

皆、浴衣を着ていた。子供達の手にはヨーヨーに綿飴。何処かのお祭りに行った帰りのようだ。楽しそうな笑顔が、薄赤い光に照らされていた。

 お祭りか——。

 だが、ちらっと見た今は深夜三時だ。

 蒲田さんは車のスピードを上げた。

 今でもそれが何だったか分からないという。


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2010年6月27日日曜日

境川の河童

 秋本さんは、東京と神奈川の境目近辺に住んでいる。

 この辺りは、川沿いに自転車道路が整備されている。秋本さんが大学に行く時にも、その自転車道路はよく使った。クロスバイクでアパートから大学まで二十分ぐらいだ。バスを乗り継ぐより早い。

 ある年の七月の初旬、アルバイトを終えた秋本さんは、その自転車道路を愛車で走っていた。丁度日付の変わる頃で、自転車道はほとんど誰もいなかった。急ぐ訳でもないので、ゆっくりと流していた。

 ん?

 蛍光灯の街灯で照らされた川面に何かがいた。

 ブレーキを掛けて停まった。ざぁーっと水の流れる音が耳に響く。虫の声がしていた。

——なんだ、あれ

 淵に、子供程の背の何かが立っていた。

 それはどうやら裸のようだった。裸の子供のようだが、こんな深夜に子供が川の淵にいるだろうか。自転車道路から水面までは五メートルはある。

 自転車から降りて柵ごしにじっと見ていると、次第に目が慣れて来たのか、様子が分かって来た。一糸まとわぬ裸だ。しかしそれは人間ではなかった。街灯に照らされた肌は、ぬるっとした緑色。で、そこに濃い色の楕円がいくつも描かれている。

 河童?

 秋本さんはその子供のような生き物は、河童だと確信した。他に何か近い生物を思い描く事はできなかった。

 それは二本足で川の真ん中に立ち、水の流れを伺っていた。魚か何かを狙っているのかもしれない。

 だぽん。

 それは急に川に飛び込んで消えた。しばらく待っていたが浮いてこなかった。

 その川は今でも河童の目撃談があるという。


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夜釣りと足音

 ざく、ざく、ざく。

 砂を踏む音が近寄ってくる。ずいぶんと速い足取りだ。時刻は午前三時。

 中村さんは、夜釣りが趣味だ。自転車なら自宅から海まで十分程である。釣り人には恵まれた環境だ。

家から竿とバケツを自転車にくくり付け、いつものように港の堤防に折りたたみ椅子を広げ、夜釣りを楽しんでいた。

 ざく、ざく、ざく。

 足音は砂浜をぐるぐる回っていた。

 変な奴もいるもんだな、と中村さんは思ったが、別段邪魔をする訳でも無いし、気にせずに放っておいた。だが、途中でその足音がこちらに向かってきた。

 じゃっ、じゃっ、じゃっ。

 コンクリート製の堤防に、砂が被って、靴底が音を立てた。そして足音は中村さんの背後で止まった。

 何だよ、邪魔すんじゃねえぞ——。

 足音の主は、背後から一歩も動かない。

 気になったので、脇の下から覗き込むようにして伺う。白いスニーカーの爪先が見えた。足首の方は闇に紛れてよく分からないが、薄い色のスラックスを穿いているようだ。男だな、と直感した。

 おっ

 竿がくい、くい、と動いた。当たりが来た。

 水中の魚の動きに合わせながらリールを巻いていく。

 じゃっ、じゃっ、じゃっ。

次の足音が近寄って来た。

「どうよ、今晩は。当たってるみてえだなぁ」

 馴染みの夜釣り仲間の声だ。

「おう——」

 答えながら変なことに気づいた。先刻の男の気配がない。

 「あれ? そこにいた男は?」

 「中さん。何だい。男なんて居なかったぜ」

 ぞっとしたという。


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2010年6月26日土曜日

路地から卵

 小学生時代の駒形さんは、ウルトラマンの怪獣ケシゴムを集めるのが好きで、日曜日の早朝、駄菓子屋の前に行き、お小遣いから二十円でガチャポンをするのが何よりも楽しみだった。その駄菓子屋は、店主が老人だったためか、何故か朝六時ぐらいから店を開けていた。

 両親がまだ寝ている間に、家を抜け出す。走って五分ぐらいの処にある、その駄菓子屋までわくわくしながら行き、おじいちゃんおばあちゃんに挨拶してガチャポンを回す。既に持っているものとダブったりしてハズレの週もあれば、自分が好きな怪獣が出るアタリの週もある。今週はアタリだった。

 ほくほく顔で家まで走って帰る間、ある路地の前で、ただごとならない雰囲気を察し、駒形少年は立ち止まった。

「あっ」

 路地から飛び出て来た卵が、浮いたまま空中を滑るように移動していた。駒形少年の前を通過し、その路地の対面にある中学校の壁にぶつかってパシャッという音を立てた。

 駒形少年は、壁についたドロリとした黄色い跡と、今しがた卵が飛び出して来た路地とを交互に見た。

 おかしな雰囲気はまだ消えていない。

 駒形少年は、じっと路地を見据えた。見ていると、予想通り二個目の卵が現れ、先ほどと同じ勢いで壁にぶつかり、湿った軽い音を立てて砕けた。

 それが合図のように、駒形少年は路地まで走り、怖々覗き込んだ。誰もいない。路地は私道で、奥に門があるが、その間には隠れる場所は無い。振り返って中学の壁を確認する。やはり二つのドロっとした黄色い跡がへばりついていた。

 駒形少年は家まで一目散に帰った。両親はまだ寝ていた。母親の布団に潜り込んだ。

 後日見に行くと、中学校の壁には、都合六個もの卵の砕けた跡があったという。


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赤垢

 玄さんの高校時代の先輩の話である。
「変な色の垢が出るんだよなあ」
 部活の時に、その先輩が玄さんに言うともなく呟いた。
 首筋をぼりぼりと掻く。
「どうしたんスか?」
 玄さんが訊くと、先輩は今しがた首筋を掻いていたその爪を確認すると、
「ほれ」
と、言って見せてくれた。爪の間に真っ赤な垢のようなものが溜まっていた。
「これ、血ぃですかね?」
 玄さんは先輩の首の後ろを覗き込んだ。日焼けした首筋には、うっすらと白く、引っ掻いた跡が付いていたが、傷も血も着いていなかった。
「血じゃないんだよな」
 先輩は爪の間に溜まった、その赤い何かを爪でほじくり、グラウンドの土に弾いた。
「変だろ」
 先輩は玄さんに言った。
 部活が終わり、チームの皆で学校の近所の駄菓子屋でアイスを食べながら、その話になった。
 一人の先輩が、その先輩に、
「オメエ、風呂入ってねえんじゃねーの」
 と、ふざけた口調で言った。言われた先輩は、
「入ってんよ。よく洗ってっけど、風呂じゃ出ないだよ」
と、言った。玄さんは何も言えなかった。

 数日後——。
やはり部活の最中に、その先輩が玄さんに言った。
 夜寝ていると、飼い猫が背中に乗って、首を凄い勢いで引っ掻いた。
 幸い傷は無く、それ以来変な垢も出なくなったのだという。
 今も赤い垢の原因は全く分からないままだ。


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人感センサー

 小野さんの家自宅のすぐ側に、大きなお屋敷がある。その地域の大地主の家で、旦那さんは整形外科医だという話だ。
 小野さんの子ども達は、姉妹二人とも、まだ幼い頃から、その屋敷の前を通るのを嫌がった。怖いのだという。その屋敷の前が小学校までの通学路なので、毎朝その前を通るのだが、朝や昼間は仕方なくといった感じで走り抜けるし、夕方以降になると、絶対にそっちを通りたく無いと涙目で言う。
 夕方クラブ活動で遅くなる時には、わざわざ回り道をして戻ってくることもある。
「何で怖いの?」
 ある時、小野さんは自分の娘達に尋ねたことがある。姉妹がなんで怖がるか、自分にはよく分からなかったからだ。
 妹の方が、
「ママ、分からないの?」
 そう言うと、姉の方が、
「あの家、黒いのが一杯いて、あの前を通るとついてくるんだよ」
 と言った。小野さんは信じられなかったが、確かに娘達には幼い頃から霊感らしいものがある。姉妹揃って言うのだから、母として信じない訳にもいくまい。
「ママ、信じないなら見せてあげる」
 姉の方がそう言うと、靴を履いて道に出た。
「一緒に来て」
 ついて行くと、屋敷の前だった。
 その屋敷のガレージは、前を通ると、人感センサーで明かりが点き、通り過ぎるとすぐ消える。それは小野さんも知っていた。
「見ててね」
 姉はそう言うと、ゆっくりガレージの前を通り過ぎた。パッと明かりが点いたが、通り過ぎるとすぐ消える。小野さんが何を言いたいのかしらと思って見ていると、誰も通っていないのに、再度明かりがパッと点いた。
「お姉ちゃんの後ろ、今男の人がいる」
 小野さんの横で妹がぼそりと呟いたという。

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2010年6月25日金曜日

突風

 空梅雨の年だったという。
 丁度六月も中旬を過ぎた頃、鷹野さんは、公園の木陰のベンチに腰掛けて、コンビニで買って来たサンドウィッチを食べていた。
 会社で食べても良かったのだが、冷房が苦手なこともあり、出来れば外気に当たっていたかった。真上から照りつける太陽はじりじりと容赦なかったが、木陰だと意外と涼しい。
 サンドウィッチを食べ終わり、缶コーヒーを開けた。
 風がさっと通り抜ける。湿度が低い。気持ちよい風だった。
 公園と道路を隔てる生け垣が、鷹野さんの右側に伸びている。手入れが追いついていないのだろう。伸びた若い枝が何本も垂直に伸びていた。予算の関係で秋にだけ手入れをすることにしたのかもしれない。
 生け垣越しに、昼食に急ぐ人々の姿をぼーっと眺めていると、次第に眠くなって来た。しかし、こんな所でうたた寝をする訳にもいかない。
 鷹野さんは残りの缶コーヒーを一気に流し込んだ。
 さて、午後の仕事に戻るか。
 立ち上がろうとすると、急にざわざわと音がした。
 何だ?
 音は生け垣を揺する音のようだ。
——野良犬か?
 動物が生け垣を揺すっているのだと思った。しかし、公園側からは見えない。
 びゅう!
 生け垣の上を走り抜けるように突風が吹いた。鷹野さんの脇に置いてあったコンビニの袋が、風に煽られて飛んで行った。
 何だ?
 先ほどまで生け垣の上に伸びていた、無数の若い枝が、誰かが手折るようにパキンパキンと音を立てながら、地面に散った。刃物で薙がれた様な切り口だったという。


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祖父の亡くなった夜

 安藤さんが大学のゼミ合宿から帰った頃には、既に日も落ちていた。一日中移動して、体はへとへとに疲れていた。早くアパートに帰って寝よう。安藤さんは旅行鞄を引き摺るようにして、最後の四つ角を曲がった。
 あれ?
 アパートの前に誰かが立っている。
 安藤さんは一人暮らしの女性だ。警戒心が働いた。訝しがりながら近づいて行くと、街灯の光で、どうやら老人だと分かった。
 (こんな時間に誰だろう。徘徊老人かもしれない。何か嫌だな。)
 安藤さんは老人に会釈することもなく、無視するようにさっさと階段を上った。
 部屋に入り、電気を点けると、妙に視界が白い。部屋全体がまんべんなく煙りに包まれていた。
 ——えっ 火事?
 近くで火事か何かがあって、煙が充満したのかとも思ったが、焦げたような臭いも無い。火事の煙では無いようだ。
 しかし、考えていても部屋の状態は変わらないし、もう体が限界だったので、考えるのを止めてベッドに倒れ込んだ。

 深夜、電話で起こされた。
 「もしもし?」
 寝ぼけた声で携帯電話に出る。電話の主は母親だった。
 祖父が亡くなったので、朝になったら家に帰るように、という内容だった。
 おじいちゃん、亡くなったのかあ。
 もう長い間入院していたし、特に感慨は無かった。
 ——え。おじいちゃん?
 そういえば、アパートの前に立っていた老人には、祖父の面影があった。
 翌朝、病院に行き対面した姿は、やはりアパート前に立っていた老人の姿にそっくりだったという。

2010年6月24日木曜日

ホームの端へ

 五味さんの帰宅中、乗換駅での話である。
 その日は仕事の関係か体調のせいか、ずいぶん疲れていた。普段から人いきれが苦手な五味さんは、いつも先頭から二両目に乗る事にしていた。階段の近くよりも混雑が緩いからだ。別に後は家に帰るだけなのだから、急ぐ必要も無い。のんびり帰って、家に着いたらシャワー浴びて寝よう。そう思っていた。
 その駅で五味さんの最寄り駅の路線に乗り換えるには、ホームから階段を上り、一度改札を出なくてはならない。階段を目指して、人の波がゆるゆると流れて行く。
 すると、その人たちの間を縫うように、一人の青年がホームの端に向かって逆走していく。人を掻き分ける、というよりは、すり抜けるようにして走って行く。
 青年は急いでいる様子だが、もう五味さんが乗って来た列車は発車している。急ぐ必要は無いはずだ。そして、青年がぶつかりそうになっても、誰も避けようとしない。まるで青年が見えていないようだ。
——ああ、お化けなんだ
 五味さんは、その日の体調次第で「見え」てしまう。最近は見る事自体少なくなっているが、その日は余程疲れていたのだろう。
 お化けに関わって良かった事など、今までに一度も無い。見えない振り見えない振り。
 五味さんは無視を決め込んだ。
 エスカレーターと階段がもう目の前にある。迷わずエスカレーターの列に並んだ。
「落としましたよ」
 後ろから女性に声を掛けられた。飛び上がる程驚いた。振り返ると、良い身なりの中年女性が、五味さんのハンカチを差し出していた。ポケットから無意識に定期を出そうとして落としたようだ。お礼を言って受け取る。
 ただ、その時五味さんの視界には、件の青年が入り込んでしまった。青年はホームの端まで走っていき、そのまま何も無い線路に飛び込んだという。

L字

 日曜日の午後、高見沢さんは、リビングのテーブルで、お気に入りの作家の本を広げながら、紅茶を飲んでいた。
 旦那さんのスリッパの音がした。
「何か食べるー?」
 声を掛けた。だが、返って来た答えは意外なものだった。
「お前それどうしたの?」
「それって、何?」
 高見沢さんはテーブル周りを、きょろきょろと見回した。
「違う違う。肩のそれ。傷だよ。どうしたの? 大丈夫?」
 え? 傷?
 朝、シャワーを浴びた時には、傷など無かったはずだ。
 ノースリーブから出た肩を左右確かめる。肩越しに、背中まで覗き込んだ。確かに左肩に傷がある。しかも一つや二つではないようだ。
 右手を回して指先で傷のある辺りを撫でてみる。盛り上がっているのは、恐らく固まった血だ。指先が触れると、ひりひりした痛みを感じるものもある。まだ塞がっていない傷なのだろう。
 指先を確認すると、乾いた血が付いていた。
 旦那さんに確認してもらうと、背中の方まで合わせて、十近くも小さな傷が付いていた。そのほとんどは既に血が乾いていた。どれもL字型の傷で、まるで彫刻刀の中の「三角刀」を押し付けたような形だった。
 傷の深さはちょっと表皮を削いだ程度のものから、割と深いものもあった。残るような傷があると嫌だな、と思ったという。
 旦那さんに消毒してもらい、傷薬を塗った。
 もうその傷は残っていないが、それにしても声を掛けられるまで、そんな傷があったことにも気づかなかったし、何時、何をしていて付いた傷かも、まるで心当たりは無かったのだという。

首の指

 池袋で乗り換えるまでが辛い——。
 朝の通勤ラッシュで、小柄な後藤さんはその日も体を前後左右から圧迫されていた。身動きを取ろうとすると、隣のサラリーマンの鞄が鳩尾に入る。ああ、嫌だなあと思って視線を上げた。
 え?
 すぐ目の前に、異様なものが見えた。
 後藤さんの前に立った男性の首、スーツを着て、ネクタイを締めたワイシャツの首から、一本一本、別の方向を指し示すような感じに、真っすぐ突き出すように、指が四本生えていた。爪がある。指だ。女の指に見える。
 指は男の首の肌とは少し肌理が違う。色も白い。蝋で出来ているかのようにも思えた。
 作り物?
 四本の指は動かない。ぴくりともしない。だが、男の肌から直接生えているのは確実だ。接着剤などで付けたようには思えない。むしろ、男の首から生えている。突き出ている。
 後藤さんは、目の前にあるものが信じられなかった。出来ればその指を触ってみたい気もしたが、流石にそれも出来ない。焦点を合わせようと努力しないと、ぼやけてしまうような至近距離に異様なものがあった。
 だが、男性本人も、周囲の人々も、男の喉から生えた指を、まるで気にしていない様子だった。電車が左右に揺れる度に、その動きに釣られて圧されるがままに、ぎゅうぎゅうと体を押し付けてくる。
 駅に着いた。人が少し流れ、男の位置が変わった。さらに人の密度が上がった。
 駅を出て、車両がポイントのカーブで大きく揺れた。その度に後藤さんの目に、指先が入りそうになった。
 ぎゅっと目をつぶる。急に列車が減速した。アナウンスが信号が赤になったことを告げている。目を開けると、やはり指はこちらを指していた。
 たまらず次の駅で降りたという。

馬の首

 平成になって間もない頃の、蒸し暑い夜のことだった。
 都内の大学に通う小嶋さんは、新宿駅から伸びる私鉄沿線のアパートに住んでいた。ロフト付きの割と広いアパートだったが、残念ながらエアコンはなかった。
 大学に入って一年目の夏なので、都内がどの程度の暑さなのか、勝手が分からなかったのだ。窓枠クーラーでも入れておけば良かったのだが、そろそろ帰省もする事だしと思うと、中々重い腰も上がらなかった。
 窓を全開にして、網戸にしていたが、空気は動かない。凪いでいた。その中で、小嶋さんは汗だくでゲームをしていた。横スクロールのシューティングゲームだ。
 小嶋さんの腕は、中々のものなのだが、今晩は細かいミスが多い。先刻から、背後の窓から視線を感じていた。ゲーム画面に集中できていない。
 だが、嫌だ嫌だと思いつつも、プレイ途中で振り返る事も出来ずにいた。ポーズボタンを押せばいいのだが、難易度の高いシーンで中断するのは緊張が途切れるので、避けたかった。後のプレイに響くのだ。
 だがその時、網戸がミチリと音を立てた。
 ミチ、チリ、チリ——
 網戸をゆっくりと力をかけて圧すと、そんな音がする。
 コントローラーを放り出し、小嶋さんは思わず振り返った。テレビでは、自機の破壊されたことを示す、派手な爆発音が鳴っていたが、それも耳に入らなかった。
 最初に見えたものは、緑色に光っている二つの丸いものだった。目だ。光に照らされて、緑色に反射していた。猫の目だと思ったという。だが、猫ではなかった。
 次第に目が慣れてきた。真っ暗闇をバックに、黒い何かが浮いていた。
 二階の窓に嵌った網戸のすぐ外に、真っ黒な馬の首が浮かんでいたという。

バス

 バスは、まだまだ来そうに無かった。
 時刻表に書かれた時刻は、剥げて読めない。長沢さんと、彼女の泉さんは、サークルの部長に頼まれて、OBの経営するペンションに預けてあった荷物を取りに行った帰りだった。
「まだ来ないね、バス」
 泉さんが言った。
 炎天下の中、安請け合いした事を長沢くんは後悔していた。足下には受け取った荷物が置いてある。春先の合宿で使った撮影機材だった。本来なら部長自身が来るはずだったのに、事故で来れなくなったのだ。副部長としてお鉢が回って来た。一人で来ても良かったのだが、旅行を兼ねて泉さん同伴でペンションに泊まったのだ。
「あ、バス来たぞ」
 最近では見られないような小さく古いバスだった。二人でステップを上ると、車内は冷房を掛けている訳でもないのに、ひんやりしていた。冷えた空気は、暑い中待たされていた身には良かったが、妙に黴臭かった。泉さんはハンカチを取り出して鼻を覆った。
 長沢くんは二人分の運賃を払い、座席に座ろうとしたが、泉さんは立ったままだ。仕方なく長沢さんも吊り革を掴んだ。客は二人以外誰もいなかった。
 しばらく走った後、泉さんが小声で言った。
「次で降りていい?」
 泉さんは青い顔をしていた。まだ目的地の駅までしばらくある。だが、長沢くんは泉さんが乗り物酔いでもしたのだろうと考えた。
 長沢さんは、機材と自分の荷物を背負い、泉さんをかばうようにして、次のバス停で降りた。泉さんは青い顔で、バスを見送った。
 ふぅ、と泉さんはため息をつくと、
「実はね、今のバス、天井から白い手が一杯下がってたんだよ」
と言った。
 バス停で待っていると、すぐバスが来た。地元の老人が何人も乗っていたという。