川本さんは、四十代後半の主婦だ。彼女は明け方に散歩をするのが趣味だ。最初はダイエットのために始めたのだが、今では雨の日以外は毎日コースを決めて歩きに行く程に入れ込んでいる。
そんなある日のこと、川本さんが川辺を通るコースを散歩をしていると、フェンスの下で、鴨が鳴き出した。大きな声だった。縄張りを宣言するように、グァアグァアと繰り返している。
へぇ、鴨ってこんな感じに鳴くのねえ。
川本さんは興味を持ち、すぐ先にあった橋の欄干から川面を覗き込んでみた。
すると、意外なことに、薄いグレーのつなぎを着た一人の若い男が、水面にしゃがんでいた。
不思議なことに、男は水の上に浮いているように見えた。足を水面に置いて、相撲の蹲踞のような姿勢でしゃがんでいた。
奇妙な光景に、何をやっているのだろうかと思った。
あれ? 鴨は?
男の姿は確かに不思議だったが、それと同時に、先ほどまで鳴いていた鴨の事が気になった。声は止んでいた。
男の周囲に鴨のいる気配は無かった。
その時、男がぐっと顔を川本さんの方に上げた。鋭い視線だった。
ひっ
川本さんは声を上げた。逃げなきゃと思った。
だが男は、川本さんを射すくめつつ、グァアグァアと先ほどの鴨の声で鳴き出した。
えぇえっ?
川本さんはそちらに驚いた。今目の前で何が起きてるのか分からなかった。混乱した。
さらに川本さんを混乱させる出来事が起きた。
男は大きく両手を広げ、二三度羽ばたかせたと思うと、一気に空に飛び去ったという。